天理教の起源

天理教の始まりは
1837 年(江戸時代幕末)にあたります。

天理教の歴史 :立教の日

天保9年10月26日 立教
 場所は、奈良県天理市三島町(当時は大和の国山辺郡庄屋敷村)
 教祖 
中山みき と言います。

 普通は開祖がこの教えをひろめるように
自ら発心し、宣教していくのですが、中山
みきはそうではなくて、親神、天理王命が
入り込んで中山みきの口を借りてお説きく
ださった教えなのです。


中山家の人々は病にたをれ、かじ・祈祷をしているときに、親神様が【中山みき】のお口を通して、
我は元の神、実の神である。この屋敷に因縁あり、この度世界一列を救けるために天降(あまくだ)った。
みきを神のやしろにもらい受けたい。

これが第一声であった。

 夫、善兵衛
(ぜんべい) と神様の問答が三日三晩つづき、「いさいしょうちしました。みき
を神にさし上げます。」
と言われた時が立教で、ここに天理教は始
まる。
 
時に天保九年十月二十六日午前八時。
ここに天理教が始まったのであります。


『教祖 中山みき様の生い立ちと教祖になるまで』
おやさま、中山みき様は、寛政十年四月十八日(陽暦
六月二日)、大和国山辺郡三昧田にお生まれに
なりました。
 三歳の頃から、なさる事が他の子供と異なっていたと
いいます。
六歳の頃には、針を持ち始め、糸紡ぎをまね、網巾着を
編み、糠袋を縫っては、好んで近所の子供達に与えられ
ました。

 七歳の時には、近所の子供が泣いて駄々をこねている
のを見て、自分が親から貰った菓子を与え、その泣き止
むのを見て喜ばれたそうです。

 又、信心深い家風の中に育つうちに、いつしか習い覚
えて浄土和讃を暗誦されました。

 庄屋敷村の中山家へ嫁いで居た叔母きぬが、姪の人並
優れた天分を見込んで、是非、伜善兵衞の嫁にほしいと
懇望されました。
両親からこの話を当人の耳に入れたところ、

「そちらへ参りましても、夜業終えて後は、念仏唱える
事お許し下さる様に。」
との希望を添えて、承知されたのです。

 かくて、五荷(ごか)の荷を持って、庄屋敷村の中山
家の人となられたのは、時に教祖十三歳でした。

 嫁がれた教祖は、一家睦じく楽しく暮されました。朝
は早く起き、自ら先に立って朝食のしたくにかかり、
日中は炊事、洗濯、針仕事、機織りと一日中家事に勤ま
れたのみならず、農繁期の、田植え、草取り、稲刈り
から、麦蒔き、麦刈りに到るまで、何なさらぬ事はあり
ませんでした。

後年、「私は、幼い頃はあまり達者でなかったが、百姓
仕事は何でもしました。ただしなかったのは、荒田起し
と溝掘りとだけや。他の仕事は二人分位働いたのやで。」
と、述懐されました。

 その頃、近在では綿を多く作っていましたが、綿木引
きをしても人の倍も働かれ、機織りもとても上手で、
しかも、普通二日かかるものを一日で織り上げられる事
も度々あったそうです。

 その上、親族知人や隣近所の受けもよく、家においた
使用人の人々には、いつも優しい言葉をかけて労わり、
仕事休みの時などは、自ら弁当を作って遊びに出して
やるなど、到れり尽せりの行き届き方だったといいます。

両親もこの様子を見て、早くも十六歳の年には、全く
安心して所帯を任せたほどでした。

近所の乳飲み子の母親が母乳が出ないので、その子を
あずかり、母乳を与えられたのですが、その間に、黒
ぼうそうにかかり一命も危ないという状態になったの
です。

教祖の一心こめての祈願が功を奏してか、預り子は日
一日と快方に向い、やがて全快しました。

 その後も、慈愛は深く、施しは広く、あるいは手織
木綿を施し、あるいは白米を施されました。

凶作、飢饉と相次いだ天保の頃には、施しは更に一層
おびただしくなりました。

 さて、 天保八年十月二十六日(一八三七年陽暦
十一月二十三日)のこと、十七歳の長男秀司は、母親み
き様に伴われて麦まきの畑仕事に出たおり、急に左足に
痛みを覚え、駒ざらえ(レーキに似た農具)を杖にして、
かろうじて家にたどりつきました。

 医者に診せたところ、ハッカ薬などを用いて手当ての
限りを尽してくれましたが、一向に痛みは治まらなかっ
たのです。

そこで、人の勧めるままに、近在に聞こえた修験者、
長滝村の市兵衞に使者を出しました。

 市兵衞は事情を聞いたうえ、早速、自宅で祈祷をして
くれました。
そのときはすぐに痛みは治まったのですが、翌日にな
ると、また痛み出しました。
こういうことが三回繰り返されて、一応痛みは治まりま
したが、二十日程経つとまたまた痛み出しました。

 心配ですから、夫善兵衞様は、また市兵衞さんに相談
されたのですが、
「そういう事ならば、いっその事、お宅で寄加持(よせ
かじ)をするがいいでしょう」
との事でしたので、その意見に従う事にしました。

 市兵衞は、勾田村のそよさんを雇い、御幣二本を持た
せて台(神様が憑依する人)とし、近所の人たちにも集
まってもらい、護摩を焚き寄加持をしました。
すると痛みは治まったのです。
 しかし半年程経つとまた痛み出したので、寄加持をし
て貰いました。そうすると痛みは治まる、暫くすると
また痛む、というぐあいに、一年の間に九度も繰り返し
ました。

 寄加持
(よせかじ) の時には、ただ近所の人々に集まって
貰うだけではなく、酒飯をふるまい、供養のため近在
の人々に施米しなければなりません。一回の費用はおよ
そ四百目(今の金額で約三十万円)かかり、軽い経費で
はありませんでしたが、可愛い息子をたすけたいとの親
心から、善兵衞は少しもその費用を惜しくは思いません
でした。

家族や親族に、市兵衞も加わって、あらゆる智恵をし
ぼっ相談を重ねましたが、いくら相談しても、元の神の
思召に従う方がよいでしょう、などとと言う者はいま
せん。

 それもそのはずです。子供は小さいし、村の役も
あるし、今が所帯盛りで大変なのに、神のやしろに差し
上げてしまっては、後はどうして家のことをやって行け
ばいいのか、分かりません。

「お断りするのが分別というものですよ」
と口を揃えて善兵衞を勇気づけるばかりだったのです。

 善兵衞としても、元の神の思召しの激しさに一抹の
懸念は残りますが、さりとて、家庭の現状を思えば、
どうしてもお受けしようという気にはなれません。

そこでまたしても、一同揃って重ねてお断り申し、早々
にお昇り下さい、と懇願しました。

ところが、その言葉の終わるか終わらぬうちに、みき様
のようすは一変したのです。
言葉も一段と厳しく、
「誰が来ても神は退かぬ。今はいろいろと心配するのは
無理でないけれど、二十年三十年経ったなれば、皆の者
なるほどと思う日が来るほどに。」
と、命ずるように諭されました。

 しかし、人々も退こうとはせず、「人間の我々は、
とても二十年も三十年も待っているわけには参りません。今すぐお昇り願います」
 と、迫ります。

 みき様はさらに激しく、
「元の神の思わく通りするのや、神の言うこと承知せよ。
聞き入れくれたことならば、世界一列たすけさそ。もし
不承知とあらば、この家、粉もないようにする。」

と、仰せになりました。
みき様は無我の境地ですから、これは、ひたすら元の神
の思召を伝えられたのです。

 みき様は、夜を日についで三日の間、御幣を手にして
端坐せられたままです。一度の食事もおとりになり
ません。
また、少しの休息もなさいませんでした。

家族や親族に、市兵衞も加わって、あらゆる智恵をし
ぼっ相談を重ねましたが、いくら相談しても、元の神の
思召に従う方がよいでしょう、などとと言う者はいま
せん。

 それもそのはずです。子供は小さいし、村の役も
あるし、今が所帯盛りで大変なのに、神のやしろに差し
上げてしまっては、後はどうして家のことをやって行けば
いいのか、分かりません。
「お断りするのが分別というものですよ」
と口を揃えて善兵衞を勇気づけるばかりだったのです。

 みき様はさらに激しく、
「元の神の思わく通りするのや、神の言うこと承知せよ。
聞き入れくれたことならば、世界一列たすけさそ。もし
不承知とあらば、この家、粉もないようにする。」
と、仰せになりました。みき様は無我の境地ですから、
これは、ひたすら元の神の思召を伝えられたのです。

 考えてみればこの時、長男秀司18歳(満17歳3カ月2
2日)長女おまさ14歳(満13歳6カ月18日)三女おはる
8歳(満7歳1カ月17日)五女こかん2歳(満0歳
11カ月2日)でした。
こかん様に至っては、まだ乳飲み子です。

家族の困惑も分かるような気がします。
 何とかしてみき様にお降りになった神様に、またお昇
りく手段は無いものかと、なおも親戚で相談を重ね
ました。

市兵衞にも相談してみましたが、すでに市兵衞の力の及
ぶところではなく、市兵衞は力なく首を振るだけでした。
まして他の人々にも名案はありませんでした。

 一方みき様のご様子はというと、食事も摂らず床にも
休まず、昼夜の別なく元の神の思召を伝えられています。
その緊張と疲労は、傍の人が見てもだんだん激しくなっ
てきました。

「このままではみきの命が危ない」

 ついに善兵衞様は、事ここに至ってはお受けするより
他に方法は無い、と決断なさいました。そして十月
二十六日、朝五ッ刻(午前八時)、堅い決心のもとに、
「みきを差上げます。」
と、お受けされたのでした。

 この時、それまでの激しい様子が初めて鎮まりました。
この時以来、中山みき様は神のやしろとお定まりなされ、
親神の心が入り込んで、その思召を述べ、世界たすけの
だめの教えを創められたのです。

 これぞ、わたしたちが月日のやしろと仰ぎ、ひながた
の親と慕い、教祖とたたえる方なのです。
時に、みき様、御年四十一歳、天保九年十月二十六日の
ことでした。
 天保九年十月二十六日は、西暦1838年12月12日に
あたります。

  いまなるの 月日の をもう 事なるわ
  くちわ にんけん 心月日や       
                十二
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  しかときけ くちハ 月日が みなかりて
  心ハ 月日 みな かしている      
                十二
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親と慕い、教祖とたたえる方なのです。時に、みき様、
御年四十一歳、天保九年十月二十六日のことでした。
 天保九年十月二十六日は、西暦1838年12月12日に
あたります。
  いまなるの 月日の をもう 事なるわ
  くちわ にんけん 心
  月日や       
                十二
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  しかときけ くちハ 月日が みなかりて
  心ハ 月日 みな かしている      
                十二
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