★教会の所在地   吹田市泉町2ー11ー33
★電話 06 6388 6080


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豊信分教会の沿革





初代会長
二代会長
    

左:初代会長
 「右: 二代会長



教会の沿革
初代会長の生い立ちと入信
 初代会長、吉田幾太郎(いくたろう)は大阪府池田市、畑村(現、池田市畑町四丁目)に明治15年4月10日、吉田卯之助、つね夫妻の長男として生まれた。


幾太郎には下に妹
きく 、友二郎がいたが、両親が 幾太郎が二十歳になるまでに 早死にしたため、若い頃より幾太郎が吉田家の農家の家長としていかねばならない 運命の生活 であった。


そうしたことでいろいろ悩んでいるところに、 明治35年、西畑村に荒木豊吉氏が天理教摂豊分教会 設立し ておられていたの で、すぐさま、教会の門をくぐり、天理の教えを聞き、その究極の教えに感銘して すぐさま 入信することになった。 幾太郎が満20才の若い入信であった。
その後、家族もろとも、攝豊分教会に住み込み、そこから布教に出た。

その後数年して 池田市から箕面市を通り吹田市の千里山を越えて吹田・豊中方面への 単独布教を経て、 さまざまな苦労を乗り越えて 大正14年4月10日吹田市の南泉町において、
[天理教豊信分教会] を設立した。


その後、吹田市千里山で大勢の信者ができていたので、初代会長、 中谷与三郎 を会長に天理教豊佐井分教会が設立されることとなった。


◎初代会長から二代会長
初代会長、吉田幾太郎は昭和26年2月6日に出直し、長男で一人っ子の 常男 (2 才)がその後を継承した。


初代会長時代には月次祭に30人前後の信者がお参りしてにぎやかであったが、二代会長、常男に交代するとまるで水が引いたようにお参りに来る人が減少し、寂しい教会となってしまった。


その1年後、昭和27年、不思議なことに当時、吹田市の千里山という所で
「日月教=ひかわきょう」 という宗教を創立し、たいそう盛んな教団があったが、その教祖、 “前田トク” という女性に二代会長が布教し、これの教えに帰依するようにさとすと、天理教の修養科に入ってくれることとなった。


それが
元と なって、月日教の幹部も次々と豊信分教会から別席をはこぶようになった。


それまで、寂しい教会がだんだんと人数が増えていった。


二代会長、吉田常男は信者さんとの神様のお話となると三時間はくだらないほど熱心にしゃべった。
又、上級、大教会や信者宅へのおたすけなどは八割は自転車で後、遠方、おぢばなどは二割が電車で通した。


初代会長時代、部内教会
  [天理教豊佐井分教会] が設立されていたが、二代会長
時代に
昭和41年、 木下種次郎 を初代会長に  [天理教豊恵分教会] も設立された。


◎二代会長から三代会長

昭和54年2月16日、二代会長は5 才の若さで急死した
ため、三代会長、今の会長で長男
吉田道明 (30才)で会長
を継承
した
三代会長の時代に 平成 元年 、神殿建築を行った。
初代や二代の会長の信仰にはなかなかおよぶものではないものの、なんとか、教会の上で教務をつとめているところである。

会長歴は33年である。
現在
最上級教会=西宮大教会(西宮市)

 上級教会=攝豊分教会(池田市)
 

部内教会 二カ所

 豊佐井分教会(吹田市)

 豊恵分教会(大阪市)
布教所 四カ所
 という教勢となっている。

◎三代会長時代
二代会長 吉田常男は昭和54年、劇症肝炎で56才で急死し、その後を後継者 吉田道明が三代会長を継承することになった。
主なできごとは、
平成元年 教会を鉄筋コンクリートで新築した。

30才で三代会長就任
36歳に上級、摂豊分教会神殿全焼、4人死亡するという大きい節を見せられる。
42歳 平成2年3月4日 神殿落成奉告祭執行
平成2年ー4年 一人娘 明代 吹田第6中学入学
平成5年ー8年 天理教校付属高校
平成8年ー9年 専修科
平成10年 前会長婦人 吉田信子 11月8日出直し (72才)
平成15年 明代、和歌山の宮木家から養子縁組で結婚
平成22年 部内教会に 娘夫婦が会長としておさまる。