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  みなさんこんにちは! 
ここでは、皆様が明るい人生を送れるような文章を
掲載します。

私たちの幸せとはどんなときにかんじられるのでしょうか?
お金がある時、家族が健康で明るい家庭。
誰でもそうなりたいものです。
そのためには、陰徳を積まなければなりません。
陰で人のために働くのです。
人の見ているところで、いくら力を見せても、それは徳とはなりません。
人の見えてないところで働くのです。
そうすれば、神様があと押しをしてくださって、力を与えて、幸せを運んでくださるのです。
決して石の上に種を蒔いてはいけません。土の中に種を埋めておけば良いのです。
このやりかたを間違えると神様がお働きにはなりません。


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宇宙にたったーつしかない地球です。
それは、人間が創ったものではありません。
宇宙に行った人たちの第一声は、「地球は美しい」の
一言です。
美しいものばかりを見ていると、心にそういう習慣
がついて、何もかもが美しく見えるようになります。
そして、美しい心づかいをするようになります。
認知症になっても、最初に思い出されるのは、美しい
と感じたことであるといいます。
それほど美しいという感情は、人間の基本中の基本
なのかもしれません。
自然は厳しいものですが、受け止め方によっては、こ
とごとく美しく見えてきます。
また、自分の幸せを感じさせてくるものです。
文明とは、すべて自然のまねをしているようなもの
であると言われていますが、何事も美しさの追求に
あるのではないでしょうか。
地球ほど美しいものはない

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他人の荷物は軽く見える

横綱になるための努力は、大変な苦労だと言われますが、
その横綱の地位を守るための苦労は、もっと大変だと言い
ます。
どんな世界チャンピョンも同じで、その地位を守ることの
方が大変だと言います。
プロのスポーツ選手たちは、楽しそうにおもしろそうに
やっているように見えますが、苦しいことの方が、
85パーセントだといいます。
それが、一番下り坂に向かって引退となると、もっと苦し
い思いにことでしょう。
他人の荷物は軽く見え、隣の花は美しく見えるものです。
他人のカッコイイところばかりを見て、自分を不幸だと悲
しんでいる人がよくいますが、全くばかげた話です。
どんな世界にいても、それなりの苦労があるのです。
苦労を楽しむ心がなければ、人間はいきていけないように
できているのかも知れません。
楽を求める人のいきつくところは、こじきのようなところ
まで落ちてしまうのではないでしょうか?

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達人の笑顔

達人といわれる人は、みな最高の厳しさを経験した人たち
です。
本当の厳しさを経験した人は、本当のやさしさをも、よく
知っています。
どの道でも、その道を極めた人は、みな柔和です。
貧乏した人ほど、お金のありがたみがわかるように、厳しさを味わった人ほど、やさしさの大切さや尊さが、わかるもの
かもしれません。
山登りをする時、厳しい表情になりますが、頂上まで登り
きった人は、苦しかったことを忘れたかのような、すがす
がしい、いい笑顔をします。
自分に打ち勝って喜びがあるから、心の底からわき出る喜
びがあります。

自分と戦って自分を超えたときに、人は本当の自信がつく
のではないでしょうか。
達人の笑顔は、自信の笑顔です。
しかも、ただの自信ではなく、自分を超越した笑顔です
から、全くこだわりがありません。
どんな人にもうちとけていく 、力みの無い素直な笑顔
です。
心の広さや考え方の違いが笑顔に出ているのでしょうか。
また、厳しさの限界に挑戦した人の笑顔は奥深いものが
あって、いつまでみてもあきることはありません。
どんどん引き込まれていく魅力があります。
なんとも言えない親しみを感じます。
つくられた笑顔ではなく、とぎすまされた人間性から、ほ
とばしるような、輝きがあるのかも知れません。
いささかの邪心もないから、不思議な安心の境地になり
ます。
達人の笑顔は、悩みを忘れさせてくれるだけでなく、病気
をも治してくれる力もあるのではないでしょうか。


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『自分とのいいわけとの戦い』

「そんなにごちそうばかりを食べていると、糖尿病になりま
すよ」と言われても、なかなか変えることは出来ません。
「もっと運動すれば、血圧は下がりますよ」と言われても、
なかなか実行は出来ません。
その時はわかっても、結局は長続きをしません。
意志が弱くて、自分に負けてしまいます。
自分の都合のいいように、しらずしらず勝手が出て、それが
原因で、病気になっている場合が多いものです。
病気だけではありません。人間関係をはじめ、あらゆる困り
事は、しらずしらず自分勝手から始まっているものです。
しかし、人間はそこに気づくことが出来ません。
自分で自分に言い訳をして、思い込みをしながら、人は生き
ているものです。
神様を信じている人は、自分が納得が出来ても、神様は納得
しないだろうと判断するから、ブレーキがかかります。
神様を信じるということは、自分の都合の良い言い訳との闘
いです。
信じれば信じるほど、自分への言い訳は出来なくなります。
自分にブレーキをかけられない人が増えています。
病気やいろいろな困り事で苦しむ人が、どんどん増えてい
ます。

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世の治まりのもとは、夫婦、親子関係の治まりにある
                                          平成25年4月23日

        立教176年4月月次祭神殿講話
                                 天元分教会長 中尾元弘

…立教の三大いんねん…
 去る四月十八日、教祖は215回目のお誕生日をお迎え遊ばされました。教祖は、寛政十年から数えて四十一年後の天保九年十月二十六日、月日のやしろとお定まりになり、五十年に亘って親神様の御教えを説き明かし、ひながたの道をお遺し下されました。
 ところで、修養科や教人資格講習会などで行われる試験問題の中に、「立教の三大いんねん」を記せ、といったような問題が出ることがあります。
 答えは、「ぢばやしきのいんねん」「教祖魂のいんねん」「旬刻限の理」の三つのいんねんであります。
 「ぢばやしきのいんねん」とは、立教に纏わる場所のいんねんのことであり、「教祖魂のいんねん」は人、「旬刻限の理」とは、時間に纏わるいんねんのことであります。
 天理教教典第三章「元の理」の中に、「どろ海中を見澄されると、沢山のどぢよの中に、うをとみとが混っている。
 夫婦の雛型にしようと、先ずこれを引き寄せ、その一すじ心なるを見澄ました上、最初に産みおろす子数の年限が経ったなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようと約束し、承知をさせて貰い受けられた。」とあります。
 元はじまりの昔、「うを」と「み」は、命の誕生に必要不可欠な、種と苗代の役割を担って下されました。
 親神様は「うを」に対して、いざなぎの命との神名を授けられ、一方「み」には、いざなみの命との神名を授けられました。
 そしてこの「うを」と「み」の両者に対して、最初に産みおろす子数の年限が経ったなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようとの約束をされたのです。
 最初に産みおろす子数の年限とは、人間元はじめ出しより数えて、九億九万九千九百九十九年の年限。
 この年限の到来したのが天保九年で、これが時のいんねんであります。また、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰りとは、後に明かされることになる「ぢば」。
 その「ぢば」は、当時の中山家の屋敷内にありました。これが場所のいんねんであります。
 そして、神として拝をさせようと、「うを」と「み」の両者に約束されたのです。これが人のいんねんであります。
…みき様が月日のやしろになられた理由…
 ところが「うを」と「み」との両者の内で、神として拝をさせよう、つまり神様、月日のやしろにお定まりになられたのは、「み」様。
 つまり、いざなみの命様の魂をお持ちであられた中山みき様お一人なのです。
 ではどうして「うを」の魂を持たれた夫善兵衛様は、月日のやしろにお定まりにならなかったのでしょうか。
 この理由については以前、教祖伝第一章「月日のやしろ」第二章「生い立ち」を学ばせて頂いたときにもお話しましたが、理由は二つあります。
 一つは、「この屋敷へ木仏金仏石仏をすえたところで、神が入り込んでものを言わすわけにいかんで。
 元なるおやの魂に人間五体の生を享けさして、神がてんよりその心を見澄ましていた。」という口伝のおさしづがあります。
 この意味は、人間元はじまりの場所の「いんねん」ある中山家の屋敷内の「ぢば」に、木で作った仏像や金で拵えた仏像、あるいは地蔵さんのように石で作った仏像を据え付けても、親神の思召を伝えることはできない。
 だから人間最初の親となる魂のその者に、人間五体の生をこの世に享けさせて、月日親神が天よりその心を見澄ましていたということなのです。
 それで「元なるおやの魂に人間五体の生を享けさして」とありますが、元なるおやの魂とは、いざなぎの命様といざなみの命様の両方の魂を指されていると思います。
 そして次に、「神がてんよりその心を見澄ましていた」とあります。ここが肝心なところで、このお二方の心を、親神様は天よりじっと見澄まされていたと仰せられているのです。お二方の魂は、役割は違いますが同じです。しかし心は違うのです。
 親神様は、人間創造から天保九年に至るまでのお二方の心、つまりみき様と善兵衛様の心をじっと見ておられて、みき様の心とその御態度こそが、親神様のお眼がねに叶った心であったことから、月日のやしろに貰い受けられたのだと思います。
 二つ目の理由は、天保九年は江戸末期、男尊女卑の封建的な家制度の社会であります。その家その家で行われる物事の決定権は、最高責任者である戸主にあったわけです。
 天保九年に起きた中山家の一大事に、堅い決心の下に「みきを差上げます。」と、家族、親族立会いの下でお応えになったのは戸主善兵衛様です。
 言い方を変えれば、親神様からの申し入れを承知することのできる役割のお方は、善兵衛様お一人だけであったのです。

 その後も、殊にひながたの前半、教祖は貧に落ち切られる道を歩まれますが、その道中には、先祖代々の財産の施し、高塀を取り払うことなどを命じられます。
 命じられるのは教祖ですが、最終的には善兵衛様が承知をし、決断をされたからこそ、事が進んでいったのだと思います。
 ですから天保九年の場面では、いざなぎの命様の魂をお持ちの夫善兵衛様の役割は、月日のやしろになることではなくて「みきを、月日のやしろに差上げます。」と、お応えになるべき立場であり役割であったのだと思います。

 今言いましたように、夫善兵衛様は、人間創造の元はじまりのときに、最初の父親の役割を担われた、いざなぎの命様の魂のいんねんを持たれた方です。
 一方教祖は、いざなみの命様の魂のいんねん、つまり人類最初の母親の魂のいんねんをお持ちの方です。
 月日のやしろにお定まりになられたのは、妻みき様ですが、その妻を月日のやしろにお定まりなることを、承知されたのは夫善兵様です。この夫婦の役割が一つとなって、天理教が始められたのです。
 人間元はじまりのとき、親神様が最初に引き寄せられたのは、「うを」と「み」の姿をされていた、いざなぎの命様といざみの命様であります。
 そして、九億九万九千九百九十九年の時を経て迎えた天保九年十月二十六日の立教。このときの夫婦は、「うを」は人間の姿をされた中山善兵様であり、「み」は、人間の姿をされたみき様でした。
 そしてこのお二方のご苦労によって、世界だすけのだめの教えが始められたのです。
…九(苦)の設定…
 さて、生命の誕生が天保九年を遡る、九億九万九千九百九十九年前という年限が、事実であるかということは、それに近い仮説もあるようですが、科学的には、ハッキリと証明されていません。
 それは、その道の専門家にお任せするとしまして、信仰の教理的解釈を述べたいと思います。
 十全の御守護の説き分けの中で、九番目に出てくるのは、いざなぎの命様です。その御守護は、男雛型、種の理です。
 そして十番目に出てくるのが、いざなみの命様で、女雛型、苗代の理であります。
 九番目の九が意味するものは、苦労の種を撒かせて頂くことの大切さを教えられているものと思案致します。
 元はじまりのお話には、九億九万九千九百九十九人の子数、九億九万年、あるいは九十九年経ってとあるように、九の数字が幾つか出てきます。
 つまり親神様は、人間創造のときに「苦」を設定されているのです。
   ないせかいはぢめかけるハむつかしい
   なんとどふぐをみたすもよふを
                     六号 82
   ないせかいはじめよふとてこの月日
   たん/\心つくしたるゆへ
                     六号 85
   月日よりたん/\心つくしきり
   そのゆへなるのにんけんである
                     六号 88

 と、おふでさきにありまして、親神様の人間創造の苦心の程が窺えます。人間も、産みの苦しみ、子育ての苦労、勉学の苦労、勤労の苦労など、人生には苦労がつきものです。
 その苦労を乗り越えることによって、人間は成長し、真の喜びを与えて頂けるのだと思います。
 そして、十全の御守護の説き分けで、十番目に出てくるのは、いざなみの命様です。
 教祖伝の逸話篇、一七三「皆、吉い日やで」のところに、九日、苦がなくなる。十日、十分と教えられています。
 先を楽しみに、苦労の種を蒔かせて頂く。苦労の種とは、人だすけのための苦労ということです。
 そのことによって、悪いんねんの苦労がなくなって、十日、十分結構という御守護の理を頂戴できるのだと思います。
…三つの悪いんねん…
 先程「立教の三大いんねん」についてお話しましたが、もう一つ、人それぞれに異なる個人の三大悪いんねんというものがあります。
 ただ「立教の三大いんねん」は、教典や教祖伝の中に出てきますが、個人の三大悪いんねんについては、出てきません。
 それは、私が勝手に考えたものだからです。しかし、信仰生活において身近に感じられるのは、このいんねんだと思いますので、三つの悪いんねんについての話をしたいと思います。
 まず一つ目は、親不幸のいんねんであります。例えば、生み育ててくれた親に感謝ができない。
 親の言うことが聞けない、喜べない。年を老いた親の面倒をみようとしないような心遣いが働くような人が持っているいんねんであります。

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方が、勘当だといって、子供が家を追い出されて、今、その子どもがどこで何をしているのかが分からないというような話は、よく聞きましたが、昨今は、自分の親がどこで何をしているのか、生きているのか死んでいるのかも分からない、と言っている人がいるような時代になっています。
 甚だしきは、親が死んでいるのに、遺体を隠して生きていることにしておいて、年金を長年に亘って、不正受給するような人も出てきている有様です。
 二つ目は、色情のいんねんです。 援助交際、不倫、セクハラ等、また風俗業を経営する人たちは、色情のいんねんを積んでいる姿です。
 三つ目は、借財のいんねんです。 窃盗、詐欺、ギャンブル、相続争い、借りた金を踏み倒す人たち。
 また、生活保護の不正受給、偽装離婚をして、母子家庭手当を不正にもらうような人たち。
 今上げた三つの悪しき事柄は、親子関係の秩序、夫婦関係の秩序や男女関係の秩序、貸借関係の秩序を乱すことになり、とても深い悪いんねんを積んでいることになると思います。
 特に今の社会を眺めますと、この三つの事柄が、社会全体の秩序を乱している、大きな要因となっていると思います。
 先程紹介した教祖伝の逸話篇、一七三「皆、吉い日やで」の中に、「六日、六だいおさまる」とあります。
 六台には、「六台はじまり」と「身の内六台」と教えられるものがあります。今日は「六台はじまり」の六台についてだけ申しますと、これは、人間誕生に関わる最も重要な六柱を意味しています。
 即ち、父なる神である月様(くにちこたちの命)と母なる神である日様(をもたりの命)の二柱が、人間を創造されることを相談された後、夫婦の男雛型として「うを」(いざなぎの命)を引き寄せ、また、女雛型として「み」(いざなみの命)を引き寄せられました。
 そして男一の道具として、鯱(月よみの命)を、女一の道具として亀(くにさづちの命)を引き寄せられました。
 これらを合せると、六柱であります。
 つまり、親子の関係、夫婦の関係、男女の関係という人間関係の中で、物やお金が動くわけでして、それらの関係の秩序を乱した結果が、いんねんとなって表れてくるのです。
 三つの悪いんねんで、親不幸のいんねんを持った人の親子関係は、例えば子供にしてみれば、親孝行しにくい親との組み合わせなのです。
 また、親にしてみれば、何時まで経っても手の掛る子ども、あるいは心配を掛けられる子どもとの組み合わせなのです。

 色情いんねんが現れた姿は、妻にしてみれば女癖、酒癖、夫にしてみれば、男癖、浪費癖など、夫婦中睦まじくなれない、夫婦の組み合わせなのです。

 借財のいんねんを持っている人は、連帯保証人の責任を負ってしまったり、詐欺に合うなど、人を騙すことを何とも思わない人との組み合わせ、出会いがあるのです。
 また人間関係の他にも、パチンコや競艇などのギャンブルに関わる環境に、知らず知らずの内に導かれ、引きずり込まれてしまうものなのです。
…たんのうとひのきしん…
 教祖は、これらの悪いんねんを切り変える道を教えて下さいました。それは、「たんのう」と「ひのきしん」であります。
 天理教教典第八章「道すがら」には、たんのうについて、「真にたんのうの心が治れば、前生のいんねんは納消される。これを、『たんのうは前生いんねんのさんげ』と諭される。
  たんのうは、単なるあきらめでもなければ、又、辛抱でもない。日々、いかなる事が起ろうとも、その中に親心を悟って、益々心をひきしめつつ喜び勇むことである。」と記されています。
 つまり、たんのうとは、人生を送るうえで、思い通りにならないことが起こったとしても、その現実を受け入れ、不足することなく、喜べないところを喜ぶ心をいうのですが、そう簡単にはいきません。
 その前段階には、我慢や辛抱が必要でしょう。しかし、その我慢や辛抱が、人を憎んだり、恨みに思ったり、あるいは我慢できずに腹を立ててしまうと、埃に変わってしまいます。
 しかし、我慢や辛抱がたんのうの心に変われば、それはそのまま魂の徳となり、悪いんねんも切り変えて頂けるのです。
 教祖は、「ならん中たんのうするは誠、誠は受け取る。」【明治三十年十月八日 おさしづ】と仰せられています。どんな難しい中であっても、たんのうすることの大切さを説かれています。
 そして、ひのきしんです。たんのうという喜びの心をもって、勇んでひのきしんを実践させて頂く。
 この二つ一つをもって、いんねんの切り変えができるのです。そして、このいんねんの切り変えということで言えば、ひのきしんの中でも、特に人だすけをさせて頂くことが肝要です。

 なぜかというと、天理教の救済理念は、「人たすけて、我が身たすかる」と、教えられるからであります。
 たんのうと人だすけによって、真にたすけて頂く道があるのです。



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「桃栗三年、柿八年」といって、種をまいて実がなるまでには、何年
かの年月がかかります。
朝顔や稲などのように、実がなるまでに早いものもあります。
運命も、種をまいて実るまでには、何年もかかるものもあれば、
すぐに実がなるものもあります。
運命は、決して偶然にやってくるものではありません。
例えば、親孝行をしておくと、女性は必ずよい縁談に恵まれます。
男性はよい仕事に恵まれます。
親不孝をした人は、女性は夫で苦労をします。男性は仕事で苦
労をします。
親不孝をすると、住む家に恵まれません。地べたに座るような運
命となります。
一瞬の間に起きる交通事故も、ある調査によると、素直でなく、
目上に立てつく性格の人に多いという共通点があるといいます。
骨折事故を起こす人は、人のうらみをかつているということで、
「うらみ骨髄に至る」という、昔の人達の経験による、共通点である
ようです。
人をたすけておいた人は、困った時に不思議とたすけてくれる人
が現れます。
また奇跡的に災難をまぬがれるのは、天のたすけなのではないで
しょうか。
この世の中の半分以上は、目に見えないカが働いていることは、確
かなようです。


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「いい種まきをしよう」


「桃栗三年、柿八年」といって、種をまいて実がなるまでには、何年
かの年月がかかります。
朝顔や稲などのように、実がなるまでに早いものもあります。
運命も、種をまいて実るまでには、何年もかかるものもあれば、
すぐに実がなるものもあります。
運命は、決して偶然にやってくるものではありません。
例えば、親孝行をしておくと、女性は必ずよい縁談に恵まれます。
男性はよい仕事に恵まれます。
親不孝をした人は、女性は夫で苦労をします。男性は仕事で苦
労をします。
親不孝をすると、住む家に恵まれません。地べたに座るような運
命となります。
一瞬の間に起きる交通事故も、ある調査によると、素直でなく、
目上に立てつく性格の人に多いという共通点があるといいます。
骨折事故を起こす人は、人のうらみをかつているということで、
「うらみ骨髄に至る」という、昔の人達の経験による、共通点である
ようです。
人をたすけておいた人は、困った時に不思議とたすけてくれる人
が現れます。
また奇跡的に災難をまぬがれるのは、天のたすけなのではないで
しょうか。
この世の中の半分以上は、目に見えないカが働いていることは、確
かなようです。


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人のためにす

る努力は自分の成長につながる。
人は逆境に立ったり、失敗を乗り越えたりしたときに大きく
 成長します。時に失敗を経験することで、自分の足りなさ
を自覚し、人の情けのありがたさも分かるというものです。
生きていれば不都合なことは起きてきます。
問題から逃げ隠れしても、何の解決にもなりません。これを
試練と受けとめ、前を向いて努力することが求められます。。
努力とは、自分の持つ知恵や力を出しきることです。思い
きり息を吐き出せば、自然と空気が胸に大ってくるように、
知恵やカを出し続ければ、その努力に勝る実力となって返っ
てきます。そしてそれが、自分のためではなく、人のために
する努力であれば、なおさら大きなご心の成長"につながる
はずです。
神様は、人の役に立とうとする人間にこそ、成長のチャンス
としての試練を与えられるのかもしれません。困難な出来事
に出合ったときこそ、これを嘆くのではなく、むしろ成長の
機会を与えていただいたと感謝して、地道な努力を重ねて
いきたいものです。