天理教を信仰すれば、真の意味で幸福になります。

天理教の究極の教えは、親神様(天理王命)が人類を創造し、その人間がともに助け合い、陽気ぐらしをすることです。“人たすけてわが身たすかる”と教えられています。

天理教の標語

感謝・つつしみ・たすけあい

 です。


☆天理教の教えは一言で表すと「陽気ぐらし」となり
ます。

教祖は 中山みきという女性です。
 崇拝する神 「天理王命 てんりおうのみこと」
 人間創造の元の神、実の神です。

根本の教えは “人たすけたら我が身たすかる” と
いう教えです。
 その目的に向かい、おつとめとおさづけを取り次ぐ
というたすかりの手段があります。

 それは各教会でつとめられる 月一度の月次祭です。
それと、各教会で毎朝夕につとめられるおつとめです。
月次祭に参拝しましょう

「明日は月次祭と言えば、宵の日より皆勇んで働か
にゃならん。」
明治31年5月17日
おさしづでこのように仰せられています。

「月次祭々々々と言うて、皆楽しんで来る。
楽しんで参る/\と言うて、所々月次祭楽しんで
来るは、道の土台である/\。」
明治33年10月16日
             とも仰せられています。

月次祭は、信仰者にとって大切な行事です。
大きなお徳を頂戴できます。

月次祭、これはつとめにゃならん。これ皆承知してくれて居るやろう。
道は半端でどうもならん」
おさしづ明治40年5月8日
と仰せいただいているように、普段と違って、特別に
心して通ることです。
だから「心新たに」と仰せになっているのです。
 そして普段の日も気軽に教会にお参りしましょう。

 ■かしもの かりものの教理
 私たちの身体はこれ皆 神様からのかりものであり、神様からはかしものという教理です。

 それで
我のものは 心だけ与えていただいて、自由に使えると教えていただいています。

 ■教理の実践
 ○布教(においがけ) 神様のお話を知らぬ人に伝え伝道すること。

 ○おたすけ 病んでいるひとに神様のおさづけを取り次ぎ、神様に快癒を祈ること。

☆教会へ参拝し、「なるほどの人」をめざしましょう

☆親神様の守護に気づき、お礼をいいましょう

☆ いつも心におやさまを想い、笑顔でくらしましょう

☆おつとめ、おさづけに一歩前進しましょう

 ■ひのきしんの教理

日々親神に寄進するという意味を持つ。

日々常々何事につけ親神の恵みを切に身に感じる時感謝の喜びは自らその態度や行為に現れる。これをひのきしんと教えられる。(天理教教典)

八ッ やむほどつらいことハない
わしもこれからひのきしん   

一ッ ひとことはなしハひのきしん
にほひばかりをかけておく   

二ッ ふうふそろうてひのきしん
これがだいゝちものだねや   

三ッ みれバせかいがだん/\と
もっこになうてひのきしん   
四ッ よくをわすれてひのきしん
これがだいゝちこえとなる   
 と諭されています。

■にをいがけの教理

ひとことはなしハひのきしん
にほひばかりをかけておく 七下り目

花のいい匂いに虫が誘引されるということから、すばらしい信仰でもって人を信仰の道にいざなうことを「にをいがけ」という。積極的に神の恵みを取り
ついでたすけること
は「おたすけ」とよばれ、「にをいがけ・おたすけ」で布教伝道を意味する場合が多い。
しかし「おたすけ」といわれるものも
広義の「にをいがけ」といえる。
諭達 第三号

立教百七十九年、教祖(おやさま)百三十年祭を勤めるに先立ち、思うところを述べて、全教よふぼくの仕切っての成人と一手一つの活動に資したい。

教祖(おやさま)は、世界一れつをたすけるために、だめの教えを啓(ひら)かれ、子供可愛い一杯の親心を以て、たすけ一条にお通りになり、五十年にわたるひながたの道をお遺し下された。

この間、たすけづとめを教え、万事の元を明かして道の次第を整えられ、明治二十年陰暦正月二十六日、かねて仰(おお)せのつとめの実行を尚も急き込み、人々の成人を促して、現身をかくされた。
以来、「今からたすけするのやで」とのお言葉通り、存命の理を以て、今も変わることなく、世界たすけの先頭に立って私達をお導き下されている。

この限りない親心に仕切ってお応えすることこそ、教祖(おやさま)の年祭を勤める意義である。心新たに、よふぼく一人ひとりが立教の本旨を胸に刻み、陽気ぐらし世界建設のよふぼくとしての自覚を高め、ひながたを目標に実働すべき旬である。

陽気ぐらしは、何よりも親神様の子供である人間が、互いにたすけ合って暮らす世の在り様である。また、よくにきりないどろみづやこゝろすみきれごくらくや (十下り目 四ツ)

心さいすきやかすんた事ならば
どんな事てもたのしみばかり (十四 50)

と仰せられるように、陽気ぐらしは心を澄ます生き方でもある。
慎みを知らぬ欲望は、人をして道を誤らせ、争いを生み、遂には、世界の調和を乱し、その行く手を脅かしかねない。我さえ良くばの風潮の強まりは、人と人との繋がりを一層弱め、家族の絆さえ危うい今日の世相である。まさに陽気ぐらしに背を向ける世の動きである。
心の拠り所を持たず、先の見えない不安を抱える人々に、真実のをやの思いを伝えて世界をたすけることは、この教えを奉じる者の務めである。
今こそ、道の子お互いは挙(こぞ)って立ち上がり、人々に、心を澄まし、たすけ合う生き方を提示して、世の立て替えに力を尽くすべき時である。
よふぼくは、教えを学び身につけ、日々実践して、土地所の成程の人となろう
。天地抱き合わせの理を象る夫婦をはじめ、己が家族の在り方を正し、たすけ合いを実行して、足元から陽気ぐらしの輪を広げよう。
また、教会に心を繋ぎ、足を運んで、その使命であるおつとめを勤めるとともに、会長を芯に、陽気ぐらしの手本たる姿を地域に映そう。
時として、親神様は子供の行く末を案じる上から、様々なふしを以て心の入れ替えを促される。しかし、とのような事をするのも月日にわたすけたいとの一ちよはかりで(十二 78)

と、全ては、ひたすら一れつ人間をたすけてやりたいとの親心からであると仰せられる。
あらゆる災厄や難渋は胸の掃除を求められる親心の表れである。
自らを省みることはもとより、見せられる事柄を通して、人だすけを促されていると受け止め、積極的なおたすけを心掛けたい。
また、常に人だすけを心掛けてこそ、世界たすけを掲げる教えの信仰者であり、それは「人たすけたらわがみたすかる」と仰せられるように、自らが真にたすかる道でもある。
おたすけは周囲に心を配ることから始まる。身上・事情に苦しむ人、悩む人があれば、先ずは、その治まりを願い、進んで声を掛け、たすけの手を差し伸べよう。病む人には真実込めておさづけを取り次ぎ、悩める人の胸の内に耳を傾け、寄り添うとともに、をやの声を伝え、心の向きが変わるようにと導く。更には、共々に人だすけに向かうまでに丹精したい。
世の人々が元の親を知り、一れつ兄弟姉妹の真実に目覚めて、互いに睦み合い、たすけ合う神人和楽の陽気世界の実現を目指して、弛むことなく世界のふしんを進めよう。
教祖(おやさま)百三十年祭へ向けての三年千日、教祖(おやさま)の道具衆たるよふぼくお互いが、その使命を自覚し、任務に邁進して、御存命の教祖(おやさま)にお喜び頂きたいと願ってやまない。

立教百七十五年十月二十六日

真柱 中山善司



 「教典」                        第三章  元の理

  親神は、陽気ぐらしを急き込まれる上から、教祖をやしろとして、この世の表に現れた、奇しきいんねんと、よふきづとめの理を、人々によく了解させようとて、元初りの真実を明かされた。

  この世の元初りは、どろ海であつた。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。
  そこで、どろ海中を見澄されると、沢山のどぢよの中に、うをとみとが混つている。夫婦の雛型にしようと、先ずこれを引き寄せ、その一すじ心なるを見澄ました上、最初に産みおろす子数の年限が経つたなら、
宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようと約束し、承知をさせて貰い受けられた。
  続いて、乾の方からしやちを、巽の方からかめを呼び寄せ、これ又、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試し、その性を見定めて、これ等を男一の道具、及び、骨つっぱりの道具、又、女一の道具、及び、
皮つなぎの道具とし、夫々をうをとみとに仕込み、男、女の雛型と定められた。いざなぎのみこと  いざなみのみこととは、この男雛型・種、女雛型・苗代の理に授けられた神名であり、月よみのみこと  くにさづ
ちのみこととは、夫々、この道具の理に授けられた神名である。
  更に、東の方からうなぎを、坤の方からかれいを、西の方からくろぐつなを、艮の方からふぐを、次々と引き寄せ、これにもまた、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試された。そして夫々、飲み食い出入
り、息吹き分け、引き出し、切る道具と定め、その理に、くもよみのみこと  かしこねのみこと  をふとのべのみこと  たいしよく天のみこととの神名を授けられた。
  かくて、雛型と道具が定り、いよいよここに、人間を創造されること
となつた。そこで先ず、親神は、どろ海中のどぢよを皆食べて、その心根を味い、これを人間のたねとされた。そして、月様は、いざなぎのみことの体内に、日様は、いざなみのみことの体内に入り込んで、人間創
造の守護を教え、三日三夜の間に、九億九万九千九百九十九人の子数を、いざなみのみことの胎内に宿し込まれた。それから、いざなみのみことは、その場所に三年三月留り、やがて、七十五日かかつて、子数のすべ
てを産みおろされた。
  最初に産みおろされたものは、一様に五分であつたが、五分五分と成人して、九十九年経つて三寸になつた時、皆出直してしまい、父親なるいざなぎのみことも、身を隠された。しかし、一度教えられた守護によ
り、いざなみのみことは、更に元の子数を宿し込み、十月経つて、これを産みおろされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて三寸五分まで成人して、皆出直した。そこで又、三度目の宿し込みをなされ
たが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて四寸まで成人した。
その時、母親なるいざなみのみことは、「これまでに成人すれば、いずれ五尺の人間になるであろう」と仰せられ、につこり笑うて身を隠された。そして、子等も、その後を慕うて残らず出直してしもうた。
  その後、人間は、虫、鳥、畜類などと、八千八度の生れ更りを経て、
又もや皆出直し、最後に、めざるが一匹だけ残つた。この胎に、男五人女五人の十人ずつの人間が宿り、五分から生れ、五分五分と成人して八寸になつた時、親神の守護によつて、どろ海の中に高低が出来かけ、一尺八寸に成人した時、海山も天地も日月も、漸く区別出来るように、かたまりかけてきた。そして、人間は、一尺八寸から三尺になるまでは、一胎に男一人女一人の二人ずつ生れ、三尺に成人した時、ものを言い始め、一胎に一人ずつ生れるようになつた。次いで、五尺になつた時、海山も天地も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をするようになつた。
  この間、九億九万年は水中の住居、六千年は智慧の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込みと仰せられる。

          月日よりたん/\心つくしきり          そのゆへなるのにんけんである            六  88

          このよふのしんぢつの神月日なり
          あとなるわみなどふくなるそや            六  50

          にんけんをはぢめよふとてたん/\と
          よせてつこふたこれに神なを              六  51

  この世の元の神・実の神は、月日親神であつて、月様を、くにとこたちのみこと  日様を、をもたりのみことと称える。あとなるは皆、雛型であり、道具である。更に申せば、親神は、深い思召の上から、その十
全の守護を解りやすく詳しく示し、その夫々に神名をつけられたのである。

    しかときけこのもとなるとゆうのハな
    くにとこたちにをもたりさまや                  一六  12

  思えば、親神は、この世人間を造られたばかりでなく、長の歳月、限りない親心をもつて、その成人を守護し、時に応じて旬々の仕込みをなされた。人類の成人とその文化の発達とは、悉く親神の篤い守護による。

    月日にわせかいぢううをみハたせど
    もとはじまりをしりたものなし                一三  30

    このもとをどふぞせかいへをしへたさ
    そこで月日があらわれてゞた                  一三  31

  親神は、この真実を明かし、一れつ人間に陽気ぐらしへの道を教えようとて、教祖をやしろとして表に現れられた。即ち、最初産みおろしの子数の年限が経つた暁は、元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようとの、元初りの約束に基く。

    にんけんをはじめだしたるやしきなり
    そのいんねんであまくたりたで                  四  55

    このよふをはぢめだしたるやしきなり
    にんけんはじめもとのをやなり                  六  55

    月日よりそれをみすましあまくだり
    なにかよろづをしらしたいから                  六  56

  親神は、この約束により、人間創造の母胎としての魂のいんねんある教祖を、予めこの世に現し、宿し込みのいんねんある元のやしきに引き寄せて、天保九年十月二十六日、年限の到来と共に、月日のやしろに貰
い受けられた。この人と所と時とに関するいんねんを、教祖魂のいんねん、やしきのいんねん、旬刻限の理という。

    この月日もとなるぢばや元なるの
    いんねんあるでちうよぢさいを                  八  47

    このはなしなんでこのよにくどいなら
    たすけ一ぢようけやうのもと                    八  48

  かくて、親神は、教祖の口を通して、親しく、よろづいさいの真実を明かされた。それは、長年の間、一れつ人間の成人に応じて、修理肥と
して旬々に仕込まれた教の点睛である。即ち、ここにいよいよ、親神直直のだめの教が垂示された。けだし、十のものなら九つまで教え、なお、明かされなかつた最後の一点、元の親を知らして、人類に、親神の子供
たるの自覚を与え、一れつ兄弟姉妹としての親和を促し、親子団欒の陽気ぐらしの世と立て替えようとの思召からである。これを、

    このよふを初た神の事ならば
    せかい一れつみなわがこなり                    四  62

    せかいぢう神のたあにハみなわがこ
    一れつハみなをやとをもゑよ                    四  79

    せかいぢういちれつわみなきよたいや
    たにんというわさらにないぞや                一三  43

と教え、更に又、

    月日にわにんけんはじめかけたのわ
    よふきゆさんがみたいゆへから                一四  25

    せかいにハこのしんぢつをしらんから
    みなどこまでもいつむはかりで                一四  26

    このさきハせかへぢううハどこまでも
    よふきづくめにみなしてかゝる                一〇 103

と仰せられている。陽気ぐらしこそ、人間生活の目標であり、理想である。これを実現しようと、よふきづとめを教えて、たすけ一条の道をつ
けられた。よふきづとめの理は、実に、この元初りの真実による。

    ちよとはなしかみのいふこときいてくれ
    あしきのことはいはんでな
    このよのぢいとてんとをかたどりて
    ふうふをこしらへきたるでな
    これハこのよのはじめだし



天理王命 十柱の神名



    くにとこたちのみこと  
    をもたりのみこと  
    くにさづちのみこと  
    月よみのみこと  
    くもよみのみこと  
    かしこねのみこと  
    たいしよく天のみこと  
    をふとのべのみこと  
    いざなぎのみこと  
    いざなみのみこと